1989年、30年前のベルリンで、たまたま道を訊ねた(西)ドイツ人青年に言われたひとことが今なお重い
30年前の夏。
日本はバブルで、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と謳われたり、ロックフェラーセンターを買いあさっていた、あのころ。
急に円高が進んで、スイスと北欧を除いてたいていどこに行っても日本より安く旅行できるようになった時代。
そんな恩恵を受けて、当時学生だった私は約一ヶ月間ヨーロッパを旅していた。
ドイツはまだ東と西に分かれていて、ベルリンは東西に分かれていて、
西ベルリンは壁でぐるりと取り囲まれていた。
西ベルリンから東ベルリンに行くには、チェックポイント・チャーリーと呼ばれる検問所を通って厳しい検閲を通る必要があった。
分裂以前に建設され、東西に張り巡らされている地下鉄も、東側の駅は封鎖されていた。東側を通るときには真っ暗な駅を通過した。
壁のそばにはときどき、国境警備隊の犠牲になった、壁を越えようとした東側の住人の碑が立っていた。たった一ヶ月前の日付のものもあったりして生々しかった。
街の中心では、原爆ドームよろしく第二次大戦での爆撃の犠牲になったままの姿をさらす、カイザーヴィルヘルム記念教会がいやでも目に入った。
私は郵便局を探していた。
まだスマホはおろかインターネットもない時代。
当時は旅行者にとって郵便局はとても便利なところだった。
ネットのない時代、切手を買って絵はがきを投函したり、国際電話をかけることのできる公衆電話が備え付けてあったり。
街中の公衆電話は故障しているのも多かったから。
たまたま道を聞いたドイツ人(当時は「西」ドイツ人)の若いおにいちゃんが自転車を押しながら郵便局まで案内してくれた。
たわいないおしゃべりから一転、私を日本人と知ると、彼はこう続けた。
「ドイツも日本も、戦争に負けて、他国から民主主義を『与えられた』よね。
内部発生的にではなく。
だから注意していないといけないよね。いつ元に戻らないとも限らないから。」
原爆やホロコーストのことは知っていても、私にとってそれは過去のことだった。
過去と現実を繋ぐこの一言に、私は頭が殴られたようにショックを受けた。
30年後の今、この言葉はより重く響いている。