遅ればせながらの自己紹介。これまで訪れた場所と猫ちゃんのイラスト。
既に2つも記事を上げておきながら、今更ながらはじめまして。
Seftaliあやこです。
Seftaliはトルコ語やペルシャ語で、桃のことです。しぇふたーりと読みます。
アラフィフです。
半世紀生きてきた中で、主に旅先での忘れがたい思い出などをぽつりぽつりと記録していこうと思います。
これまで訪れた国は、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、オランダ、西ドイツ、東ドイツ、ハンガリー、オーストリア、スイス、香港(中国返還前)、ポーランド、チェコスロバキア、イタリア、スペイン、モロッコ、スペイン領セウタ、イギリス領ジブラルタル、韓国、台湾、オーストラリア、インド、トルコ、北キプロス、キプロス、ギリシャ。
分裂したり、合併したりで、消滅した国もあれば、
80年代後期の東欧など、政治体制ががらっと変わった国も。
そんな地球のどこかで見聞きし体験した、忘れられないエピソードを
思い出語りしたりします。(最近の体験も含む。)
*ちなみに、上のかわいい猫ちゃんのイラストは、友人のとらさくやさん画。
とても気に入っていて、勝手に「旅立ち」と命名(笑。
Instagramで作品が公開されてます。
アカウントはtorasakuya、よかったらこちらもチェックしてみてください。
1988年、アメリカの片田舎で『ラスト・エンペラー』を香港人の友達と鑑賞したあの頃のこと
1988年の夏から約1年間、交換留学生としてアメリカに滞在していた。
田舎であまり娯楽もなく、月に一度の大学構内での映画鑑賞会が楽しみだった。
その月の映画は『ラスト・エンペラー』。
留学生仲間の香港人の女の子と連れ立って見に行った。
美しい画面、美しい音楽。衝撃のストーリー。
坂本龍一が音楽を担当し、また役者として出演していることもあり、当時話題になった映画だった。
封切り時に日本で一度見ていたし、丁寧でゆっくりとした英語なので、渡米後まもない私でも十分楽しめた。
映画が終わって、何の気なしに
「あの映画に出てた天皇、今病気で日本中で大変なことになってるよ」と言ったら、
その香港人の友人は心底驚いた顔をして、こう言った。
「戦争に負けたのに日本にはエンペラーがまだいたんだ!」
…
それまで、天皇の存在の是非についてなど考えたこともなかった私には、とても新しい視点だった。
また、日本が負けた、ー Japan lost the war.ー という、ごまかしのないクリアな表現も新鮮だった。8月15日は、いつだって「終戦」記念日だった。戦争に負けた日ではなく、あくまでも、戦争が「終わった」日。
しかも、
歴史として映画に登場する人物が存命で、今その長い一生に終止符を打とうとしている。
そしてその母国で起きている歴史的瞬間を遠くで見ている。
というシチュエーションがまたなんとも不思議な感覚で、強烈で、
歴史の一部を目撃したような、自分もその一部になったような、
そんな錯覚をしたような、高揚した、ふわふわした気持ちにつつまれた。
…そんなことを北米の片隅でアジア人ふたりが話した数ヶ月後、年が明けてまもなく昭和天皇はご崩御された。
ちょうどクリスマス休暇でニューヨークに滞在していて、紀伊國屋書店で新聞号外をもらって知った。
留学を終えて日本に帰ってきたら元号が変わっていて、消費税が始まっていた。
国中がバブル景気に浮かれていた。
思えば当時の香港はイギリス領だったので、第二次世界大戦の戦勝国側だったのだな…と今になって気づく。
香港には、文化大革命等の混乱時に、大陸からたくさんの人が流れてきたと聞くけれど、中国本土とて戦勝国なのであった。
そのことと、当時の彼女の発言がどう関係していたのか、今となっては確認のしようもないけれど…。
当時は香港の中国返還が数年後に迫っていて、香港人留学生はみんな卒業後アメリカもしくはカナダに移住する気満々で本気度が違った。
まだ中国本土からの留学生なんて皆無だった時代。
その後、彼女はアメリカ人の伴侶を見つけて結婚して、アメリカに移住した。
香港デモのニュースを聞くたびに、彼女や他の当時の香港人留学生たちの今に、思いを馳せている。
1989年、30年前のベルリンで、たまたま道を訊ねた(西)ドイツ人青年に言われたひとことが今なお重い
30年前の夏。
日本はバブルで、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と謳われたり、ロックフェラーセンターを買いあさっていた、あのころ。
急に円高が進んで、スイスと北欧を除いてたいていどこに行っても日本より安く旅行できるようになった時代。
そんな恩恵を受けて、当時学生だった私は約一ヶ月間ヨーロッパを旅していた。
ドイツはまだ東と西に分かれていて、ベルリンは東西に分かれていて、
西ベルリンは壁でぐるりと取り囲まれていた。
西ベルリンから東ベルリンに行くには、チェックポイント・チャーリーと呼ばれる検問所を通って厳しい検閲を通る必要があった。
分裂以前に建設され、東西に張り巡らされている地下鉄も、東側の駅は封鎖されていた。東側を通るときには真っ暗な駅を通過した。
壁のそばにはときどき、国境警備隊の犠牲になった、壁を越えようとした東側の住人の碑が立っていた。たった一ヶ月前の日付のものもあったりして生々しかった。
街の中心では、原爆ドームよろしく第二次大戦での爆撃の犠牲になったままの姿をさらす、カイザーヴィルヘルム記念教会がいやでも目に入った。
私は郵便局を探していた。
まだスマホはおろかインターネットもない時代。
当時は旅行者にとって郵便局はとても便利なところだった。
ネットのない時代、切手を買って絵はがきを投函したり、国際電話をかけることのできる公衆電話が備え付けてあったり。
街中の公衆電話は故障しているのも多かったから。
たまたま道を聞いたドイツ人(当時は「西」ドイツ人)の若いおにいちゃんが自転車を押しながら郵便局まで案内してくれた。
たわいないおしゃべりから一転、私を日本人と知ると、彼はこう続けた。
「ドイツも日本も、戦争に負けて、他国から民主主義を『与えられた』よね。
内部発生的にではなく。
だから注意していないといけないよね。いつ元に戻らないとも限らないから。」
原爆やホロコーストのことは知っていても、私にとってそれは過去のことだった。
過去と現実を繋ぐこの一言に、私は頭が殴られたようにショックを受けた。
30年後の今、この言葉はより重く響いている。